帰りの会


ライブツアー「帰りの会続編」の全行程が終了した。人生初のライブツアーは長期的なものではなく、東京大阪福岡の三箇所ばかりを行脚する短期ツアーだった。短期ツアーなんだから当たり前と言われたらそれまでなんだけど、いざ始まってみると早いもので、気がつけばあっという間に終わっていた。

ライブをやり終えた今になって、色々と思うことはあるし、しんどいこともあったけど、最終的に楽しかったなあと思えたのでよかった。この一連のライブが始まる以前から、「今の自分には楽しむことくらいしかできない」という予感のような自覚があったので、それだけは絶対に厳守しようと決めていて、それができなかったら失敗だとさえ思っていた。みんなは楽しんでくれただろうか。もっと自分にできることを増やしたい。一つ一つやってくよ。

生きているかぎり、同じ場所に留まることはできない。経年劣化もそうだし、人体を構築してる細胞は日々絶えず死んでは生まれの循環を繰り返しているらしい。変化についていけず「自分は何にも変わってないのに」としきりにぼやく人をよく見かける。自分自身がずっと変わらずに生き続けるためには、常に変わり続けることでしかありえないんだ。
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お雑煮

行きたかったライブにも行けず、最近は家で絵ばかり描いてる。
絵を描くのは難しい。ここ数日を振り返ると、実際に作業してる時間よりも考えてる時間の方が圧倒的に多かった。ここ数年の活動サイクルから、「レコーディングの直後に描画を詰める」という流れが出来上がりつつあるんだけど、レコーディングの最中は音のことしか考えていないので、トラックダウンが終わる度にいつも、まっさらで何もない部屋に放り込まれるような感覚に陥る。僕は18歳の頃1年間だけ美術の学校に通ってたんだけど、その頃よりもけっこうまじめにやってると思う。

僕がニコニコ動画に音楽を投稿し始めてから今年で恐らく7年になる。ボカロ曲は5年前だけどそれ以前にも自分で歌っていたものを投稿していた。高校生だった当時は音楽と絵ばかりに熱中して、それ以外には全く興味を持てず、自分で思い返してもやりすぎだった気がする。

音楽を作り始めたのは恐らく僕が14歳くらいのころで、その当時組んでたバンドのメンバーでお年玉を出し合ってKORGのD3200というMTRを買った。あまりはっきりとは覚えてないが、5人がひとりずつ2万円を出したので合計10万円は確実にしたはず。これはバンドの意思というより僕個人がどうしても欲しかったもので、半ば強制的にお金を徴収した記憶があり、当時から良心の呵責を少しばかり感じていたので、後にメンバーにはお金を返した…と思う。ネットで注文していたそれが僕の家に届き、いつも集合場所にしていた友達の家まで両手に抱えて歩いて持っていったのを覚えている。

それからしばらくしてパソコンを使って音楽を打ち込むことを覚えた。操作方法もよくわからず数曲録音した後は適度に飽きられ放置気味のMTRだったが、そいつにこの打ち込みファイルを同期させられたら可能性が広がるんじゃないかと思いついた。しかし当時の知能指数2である自分にはその方法がさっぱりわからず、説明書をみたところで何語ともつかない専門用語の羅列に呆然としつつ、ない知恵と知識を振り絞った結果、「パソコンとMTRを繋ぐ媒体にする為だけにヤマハのQY100というハードシーケンサーを新たに買う」という回りくどい結論に至った。試行錯誤の末にこの思惑はなんとか成就し、打ち込み音源にギターと歌を重ねられるようになり、作曲の楽しさが倍増したはいいが、このQY100が思った以上に電力を消費することに気づき、1時間もすると電池が切れてしまうという新たな問題に直面した。またまたない知恵と知識を振り絞った結果、こんどは「100均で10本1セットの電池を財力が許す限りに買い込む」という愚行に走り、充電アダプタを買えば一発で解決する問題に気づかないまま音源制作に励んでいた。QY100は確か一度に単三電池を4本セットせねばならず、そんなの初代ゲームボーイ以来だったので大層驚いた記憶がある。

結局何が言いたいかというと、あれからもう7年も経ったのかってこと。未だについこの間のことみたいに感じるのは、この話を生放送とかでも定期的に言語化しているからなのかもしれない。14歳から高校卒業までの間で、ラフなものも含めるとおよそ100曲くらい作った。そのどれもがいい曲だったとは言えないし、めちゃめちゃなものも多分に含まれているが、思い返すとよくやってたよなあと思う。

今でこそ「ニコニコインディーズ」なんて言葉があり、ある程度コミュニティとして機能してるみたいだけど、当時はそんな言葉もなかった。ただ黙々と誰が喜ぶかもわからない雑な音源に絵をのせて投稿して、検索の邪魔だとかでウザがられ、再生数なんかも行って2000とかの次元だった。そんな中でも僕と同じように自主制作音源を投稿している人は希少ではあったが確かにいて、何となく意識したり、影響を受けたり、コミュニケーションをとったりすることもなくはなかった。あの頃から今でも交流が続いている人もいるけど、大抵は霧散して消えてしまった。彼らは今何をしているのだろうか。

インターネットを介した匿名でのコミュニケーションは、広大であると同時に希薄でもある。お互いの名前も知らなければ顔も見たことがない。何となく繋がってるつもりではいても、SNSやレンタルサーバーのサービスが終了してアカウントごと消えてしまい、二度と連絡が取れなくなるなんてこともあり得る。そうやって断絶してしまった人とは、もし道ばたで偶然ばったり出会ったとしても気づかないし、まかり間違って知り合いになったとしても気づかない可能性が高い。どこかで生きているのか、または既に死んでしまっているのか、はたまた実はすぐそばにいるのかさえもわからない彼らは、聖性を帯びた影になり、脳裏にその輪郭だけ焼き付けていなくなる。

当然これからも生活は続いていくので、過去を思い返すことも、思い返す間もなく忘れていくようなことも増えていくだろうけど、まあなんとなくやっていこうとおもう。予想外に長文になってしまった。
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レオパードゲッコー

今歌詞を書いている。あまり進展しないのでブログを書いてみることにした。

自分にとって当たり前であることが他人にとってもまた同じではない。ちょっと考えたらすぐにわかることだけど気を抜くと忘れてしまう。何でこんなことがわからないんだろう?と本気で疑問に思い、怒りが湧いてくるのを抑えられないことがままある。
むかし僕が学生だったころは、所謂「いじめ」というものに今より密接な環境にいたので、その構造についてよく考えた。学校のような閉鎖的な空間にいじめはつきものだ。そしていじめられるのは他人に「何でこんなことがわからないんだろう?」と思われる人間だった。
トロい、歩き方や喋り方が変、共同生活に対するリテラシーがないなど、理由は様々だけど、けっきょく標的にされるのは大多数が当たり前にできることができない人間だった。そういう人間は「皆ができてる簡単なことが出来ない、つまりそんな些細な努力すらできない怠け者で馬鹿なんだ」と解釈されてしまう。ひとつの解釈はいずれ共通認識になり、常識になり、最終的には「こいつは叩いてもいい」という免罪符になる。その免罪符を盾に私刑が行われる…というのがいじめの基本的な構造だと思うのだけど、考えるたびに「これは無くならないよなあ」と悲観的な気持ちになる。
学生当時から「当たり前のことをやってたらいじめられない」という言葉をよく聞いたけど、それはつまり「適合できないやつは死ね」と言ってるようなもので、根本的な解決には繋がらない。いじめられるような人は当たり前のことが理解できない。これは資質の問題であって当人の努力云々ではどうにもならない。
僕は音楽を仕事にしているけど、音楽を作るには資質と適正が必要な部分が大きい。自分に対して自ら資質があると言ってしまいたくはないけど、他人に対して何故これがわからないんだろう、出来ないんだろう?と感じることは多い。自覚なく相手を傷つけてしまったことも沢山あっただろう。環境に適応できない者はあっけなく振るい落とされて忘れられていく。そういう露骨な環境に身を置いているからか、「振るい落とされた者」のことをよく考える。彼らはどうしたらいいんだろう。振るい落とされた者のための受け皿はどこにあるんだろう?

思うがままに書いたらとりとめのない文になってしまった。歌詞にもどる。
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久しぶりにブログを更新しようと思い立ってみたが、特筆するようなことは別にないので適当に書く。

今日の朝ワールドカップ日本対ギリシャ戦をテレビで見ていたが、待てど暮らせど一向にゴールが決まらずもやもやしたまま試合が終わってしまった。選手が日々積み重ねている鍛錬や苦悩というのは、こうやってテレビの前で都合のいいときだけ応援して後は見向きもしないような人間に分かるはずも無いし、その姿勢が賞賛に値するのは論を待たないが、クソつまらん試合であったのもまた間違いない。聞けばこれから日本が決勝リーグへ進出する為にはなかなかハードな条件をクリアしなきゃならないらしい。健闘を祈る。

ネットで有名なフリーゲーム「青鬼」が実写化するというので予告編を見てみたが、これじゃない感が半端ない。原作の青鬼には空虚さとか無邪気さとかある種「白痴っぽい」部分があり、何を考えているのかが本質的に理解できない感じが恐ろしさを助長していたのに、これは完全に悪意や怒りを持っている。青鬼の胸中を理解できてしまうじゃないか。不気味なものとは、そのおおよそを人間の範疇では想像できない論理的破綻からくる。だからそこに「人を襲う」という点において悪意や怒りといった「理解できてしまう」理由づけをしちゃいけない。青鬼は不気味であり聖性を帯びなきゃいけないのにこれじゃただの凶暴なモンスターだ。

同年代の友達と飲みにいったりすると、その生活の多様さに驚くことが多い。会社でこき使われてるやつ、フリーターでモラトリアム継続中のやつ、早々に子供を作り育児に追われているやつ。ネットなんて全く見ないやつ、日々アニメばっかり見てるやつ。昔は皆大体同じことで一喜一憂していた筈なのに。時間の流れと共に人間もまた流動するものである、人間は川のようなものであると誰かが言っていたのを思い出した。

ここまで書いて思い出したが、最近までグッズのデザインをしていたんだった。TシャツやiPhoneケースは前から一度作ってみたかったので絵を描いてる間は凄く楽しかったが、何ぶん初めてのことだったので受け入れられるかどうか不安もあった。蓋を開けば割と好感触だったので一安心。また作りたい。

夏が近い。
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投げっぱなしジャーマン

・気がついたら9月になっていた。最近外を歩いているとなんだか妙に涼しくて、まさか…とは思っていたのだが、ついに9月がきてしまったらしい。夏が終わりつつある。

・「自分でものを考える」というのはどういうことなんだろう、と常々思う。自分の意思なんてものはまやかしではなかろうか。いつだって大きな流れの中を流れ揺蕩っているだけで、流れそのものを体現することしかできないのではないか。それを自分の意思と呼んでいいのか。切り取ってきた断片を張り合わせコラージュしてきた人格をオリジナリティと呼んでいいのか。

・独創やオリジナリティという言葉は近代になって生まれたもので、著作権やコピーライトと共に生まれた概念であるらしい。インターネット上にて権利の主張に躍起になっている人は少なくない。

・「何処にもいけない」という感覚が自分の中に大きく内在していて、よく歌詞に使ってしまうし使おうとしてしまう。自分でもこれが何なのかよくわかってなかったけれど、改めて考えてみると、どうやら不可逆な時間の流れに於いて使っているらしい。と思う。やっぱりわからない。

・自省は必ずしもネガティブな意味をはらむものではない。自省によって自分の悪いところを見つけられるなら、必ずいいところも見つけられるはずで、それができないやつは意図的に悪いところを探しているだけ。こういうのを卑屈っていうんだろうな。

・https://www.youtube.com/watch?v=mOHkRk00iI8
こういうの見ると、面白いと同時に感動してしまう…。

・セカンドシングル「MAD HEAD LOVE / ポッピンアパシー」 が10月30日に発売になりました。いい曲です。よろしくお願いします。インターネットにて作ったらすぐニコニコに投稿してきた身として、作ってから発売までラグがあるのがどうも慣れない。どうにかならんもんかと思うし、郷に入りては〜とも思う。

・夏が終わる〜〜〜。
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現在

Author:米津玄師

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